Chronus ~運命ときの牢獄 ストーリー

【信者と犯人】2014年5月
クロノスタシス

 揺らめくランプの明かりが、石造りの廊下に細長く漏れ伸びている。
夜の11時を過ぎれば、いつもは閉ざされている教祖の部屋のドアが、今夜に限っては開いていた。
他の幹部信者は、既に自室に入り、館内はひっそりと静まり返っている。どこからか、犬の遠吠えが聞こえた。
見回りの近習の信者は、怪訝な面持ちで廊下を進んだ。手持ちのランプの光が、足元で揺れている。
 部屋の手前で、歩みを緩めた。ドアは、15センチほど開いている。不審に思った信者は、木製の重厚なドアをゆっくりと押し開け、身をかがめて慎重に部屋の中へと入った。

 横たわる教祖の前に、フードを被った人の姿が見える。後ろ姿だけでも、それは男だと分かった。
男は、足元に広がり出した血だまりを避けるように、少し後ずさりした。そして、ズボンのポケットに何かを収め、肩で大きく息を吐いた。
 その様子を、背後から伺っていた信者は、迷わず傍らの火かき棒に手を伸ばし、柱の陰から躍り出た。そして、男の背後から、頭部を目掛けて真鍮製の火かき棒を振り下ろした。
 風を切る音の直後、鋭く尖った先端が、フードもろとも男の後頭部を切り裂いた。男は、うめき声をあげながら信者に体当たりし、教祖の部屋から逃走していった。
 大きく弾き飛ばされた信者は、腰元を手で押さえながらようやく立ち上がり、横たわる教祖のもとに急いだ。動かなくなった教祖の胸に、銀の燭台が深く突きささっている。血だまりが、徐々に大きくなってきた。驚いた信者は、呼吸を忘れるほどの硬直のあと、後ずさりしながら他の信者に助けを求めて部屋を出ていった。


 右の側頭部から首筋にかけて、大きな切創を負ったが、致命傷ではなかった。罪の意識は驚くほど無く、思いの外簡単に目的のものが手に入ったことに、多少戸惑ったほどだった。
追われることは、分かっている。教団の幹部信者は、事件が明るみになるのを恐れ、すぐさま事件の隠蔽と犯人捜査の命を、間違いなく下しただろう。半月が過ぎた頃には、もう追手の存在が近くに感じられるようになっていた。
 明治時代初めの日本に、西洋人によって密かにもたらされた新興宗教。時空を司る神を深く信仰し、信者はその生まれ変わりとして、自らをクロノスタシスと称した。西洋人が中心の密教だったが、日本人信者も多からずいた。
 当時から暗躍に徹し、その存在を知る人間は少ない。彼らは、教団の発展は望まず、存続を重要視する。受け継がれる”神の力”を守り抜くことが、彼らの最大の使命なのだ。その神の力を守るためには、彼らは手段を選ばない。これまでも、教団の前に幾人もが命を失い、闇に葬られてきた。
 今回のことも、いかなる手段を使っても事件を揉み消そうとするだろう。なにせ、教団にとっては教祖殺害という前代未聞の不祥事なのである。もう、時間は残されていないだろう。一刻も早くこの力を開放し、我が手にしなければならない。
 過ぎ行く車の風切り音に怯えるほど、身の危険を感じている。住み慣れたこの部屋も、もう長くはないだろう。手にした古い懐中時計が、寿命が近い蛍光灯の明かりで鈍く光っている。手のひらで優しく包み込めば、秒針が奏でる鼓動を感じた。


「年代ものですね」
 店主は言いながら、黒いベルベットのジュエル・トレーをカウンターに置いた。真鍮色の懐中時計が、丁寧にのせられている。工房は古く、客一人が入れるだけの広さしかなかったが、ひと目を憚ってあえてここを選んだ。
「ですが、ごく普通の時計のようです」
 想定していた通りの答えが返ってきた。
「あぁ…しかし、裏蓋に刻まれた言葉は興味深い…特別な時計だったんでしょう」
 不満の表情を読み取ったのか、店主は取り繕うように言った。
時計工房で、見抜けるはずはないと、期待はしていなかった。もとより、技術的な問題でもなければ、機械的に説明ができるものではないことは、分かってはいた。しかしそうでもしなければ、糸口が見つからず、焦りが募るばかりだ。
少し前に、工房先に近づき、不意に止まる二つの足音を背中で聞いた。5分程して立ち去ったが、教団からの追っ手とみて間違いないだろう。二日前に部屋を引き払ったことに、もう気が付いたか。何れにしても、奴らは間違いなく事件を闇に葬り去るだろう。それは、自分にとっては、死を意味する。
もう、逃げ切れないか。
「分かった…有難う」
 汗ばむ日が、3日ほど続いている。6月も終わりになれば、気候の変化がよくわかる。
今年の梅雨明けは、早そうだ。

※このストーリーはフィクションです。
登場する人物・団体・名称等は架空であり、
実在のものとは関係ありません。