4th
【少女】
1990.12.1 主治医

 少女は七歳になった。
誕生日は12月だということだが、正確にはわからない。
ずっと部屋にいるのは、このエリアには珍しい積雪のせいではない。どの季節であっても、少女はいつも部屋にいた。
 そして、いつも独りだった。

 読み書きは主治医から習い、早くから絵日記を書くようにまでなった。そして、読書は少女の大切な自由時間になっていた。
 一日のうちで、母親と会話をするのは僅かで、寝食を共にすることは“許されていなかった”。
先天的な記憶障害により、主治医による集中治療を受けていたが、もうすでに3年が過ぎていた。

 少女は、過去を思い出せないままでいる。
少女は、自分が誰であるかもわかっていないだろう。
 しかし、それを知ろうとはしない。
なぜここにいて、なぜ独りで、なぜ部屋から出られないのか、自身から知ろうとは決してしない。
そうすれば、思考が暴走し、耐え難い治療を強いられることを、分かっているからである。

 まだ4歳のころは、そうでもなかった。
6歳になってから頻度が増え、7歳の誕生日を迎えるころには、毎日のように発症するようになった。

“何かを思い出そうとしているというのか…暴走という危険を冒してまで”

 脳の発育と共に、過去の記憶が蘇ろうとしているのならば、それは少女の成長と共に身についた治癒力である。それはそれで、回復の兆しと言えた。
しかし、もし少女が自分の意志で何かを思い出そうとしているのなら、状況は極めて危険である。

 少女監禁の理由は、思考障害による突発的な危険行動を起こす恐れがあるとして、母親へは説明していた。
 しかし母親にとって、娘の監禁など、もうどうでもよくなっていた。
これが自分たちの生き方なのだと、思うしかなかったのだ。
 なぜなら、母親もまた、過去を失っているのである。

4th【少女】終

5th
【気がかり】
1991.4.2 主治医

 三日続きの雨もあがって、芽吹いて間もない庭の草木が、静かに頭をあげようとしている。
昼前までは、窓からの見慣れた風景に、強い雨が打ちつけていた。
 もう、3年になるだろうか。
少女が四歳になった頃から、主治医としてこの洋館を訪れるようになっていた。

 彼女のカルテに書き込んだ最初の所見内容は、記憶障害だった。
以後、細かな仕草や言動を記録に残し、時には実地的な試験を加えながら、症状の原因を探ってきたが、解明できない部分は多い。

 一般的に言われる“脳の発達”とは、シナプスの増加と、神経回路の広がりを指す。
シナプスは、三歳までは劇的に増加し、神経回路もそれに伴い拡大すると、たとえ幼児であっても 数週間の出来事を脳に記憶し、ストーリーとして呼び出すことができるようになるのである。

 しかし彼女は、記憶を呼び出すことが、上手く出来ずにいた。
脳が発達していないのではなく、記憶をたどる回路が複雑に絡み合ってしまい、出口を見つけ出せないでいるのである。
 時には、驚くほどの正確な記憶力を見せたかと思えば、その日食べた朝食のメニューを聞けば、 3日前のものだったりと、ようやく見つけた出口でさえ間違えてしまうのである。
 「障害」と文字だけでカルテに書き記したが、その裏にある、少女の高度な先天的知能に、その時気付くことができなかった。

 若いころは、脳への直接的な診療もおこなっていたが、外科手術を好まない性格を修正できず、記憶障害を持つ患者に特化した心療内科を専門にしていた。
 その後、少女の担当医になってからは外来も診なくなり、今では少女に限定した脳神経内科医として診療を行っている。
 そんなことを思いながら、手入れされた広大な庭を眺める視線を、室内のモニターへと戻し、ようやく意識を現在に引き戻すことができた。

 診察といっても、日中は少女の様子をモニター越しに見て過ごし、必要であれば、夕方に彼女達と話をして一日を終えるというものだった。
 往診と言えるほど大袈裟なものでもなく、そして緊急を要することは、今まで一度もなかった。

 しかしここにきて、少女に変化がみられるようになってきた。
“回復”ではなく、“気がかり”である。
 それは、少女が妹について、よく話をするようになったことと、一緒に遊ぶ時間が増えてきたことだ。
母親がしきりに少女を外に連れ出したいと訴えてくるのは、今に始まったことではなかったが、 さすがに7歳にもなれば、今の生活環境では、もう賄いきれなくなっているのだろう。 3月終わりの暖かい日をあえて選び、
いくつかの条件を与えたうえで、外出の許可を出したのだった。

 * * * 

 少女は、はじめは躊躇した様子を見せていたが、次第に動きも軽やかになり始めた。
 海に近いこの公園は、いつも人気が多く、この日も家族連れで賑わっていた。
彼女たちの姿は、その風景に自然に溶け込んでいる、ごく普通の家族そのものだった。

 母親が少し離れたところから、くまのぬいぐるみを小脇に抱えた少女を見守っている。
 ほとんど会話をすることはなかったが、条件の一つだった“一時間の外出”の間は、優しい母親の目になっていた。
かけ出す少女を見ては、時折立ち上がり、心配そうな仕草さえ見せた。
 そんな小さな反応ですら、カルテに書き残した。
少女だけでなく、母親の行動についても、そうしていた。

 幼少期の記憶など、どれほど重要になろうか…。
彼女の記憶なんて、この数十枚のカルテに過ぎないではないか。
 ならば、これから生きてゆく記憶こそが重要ではないのかと、ひどく無責任な意識を押し殺しながら、 我に返るように彼女達に視線を戻した。
 途端に、公園の喧騒が耳に戻ってきた。
父親と思しき男性が、こどもの笑顔を捕えようと一眼レフを構えているが、 あまりにも当たり前の風景だったせいか、その違和感に気付くこともなかった。

 時折、海風が土埃を巻き上げていたが、だれも気にはしていなかった。
はしゃぎ、笑い、走る。
子供はみな同じだと、心の声で呟いた。

5th【気がかり】終

6th
【ERIKA】
1991.4.15 主治医

 えりかは姉である少女の部屋でよく遊んだ。
ときどき癇癪(かんしゃく)を起してしまう癖があり、姉と喧嘩をすることもしばしばあった。
 しかし、四歳にしては姉思いで、姉が寂しそうにしているときは、必ず会いに来ていた。

 少女が嬉しそうに、えりかの話を母親にすることが多かった。
 部屋の中でかくれんぼをしたり、一緒に絵を描いたり。
自分の好きな本を、たどたどしくも読み聞かせてあげていると思えば、喧嘩もする。
 そんなことを、少女があまりにも嬉しそうに話すので、母親も優しくうなずき、いつまでも話をきいてやっていた。

いつも同じ内容のくり返しであっても、どれだけ長い時間であっても。

 暖冬明けの3月は、逆に気温が上昇せず、冷たい雨がよく降った。
 それでも、限られた晴天の暖かい日を見つけて、えりかと少女は初めての外出を果たした。
1時間という制限はあったが、海に近い公園でひとしきり遊ぶことができた。
 そして、4月も中ごろになって、ようやく春らしさを感じるようになった。
前日の夕方にやんだ雨は、小さな水たまりを残し、遠慮がちな午後の太陽光をゆらゆらと反射していた。

 約束の時間の少し前に、母親に帰宅するよう声をかけた。
 先に戻ることを告げると、母親はうなずいただけで、すぐまた少女に視線を戻した。
少し離れたところで、まだ少女がはしゃいでいる。
 小脇に抱えた茶色いくまのぬいぐるみが、ぐったりとしているように見えて、可笑しくも愛らしい。

 (1991.4.15 外出 総合失調症の疑い)


 一足先に洋館内にしつらえた医務室に戻り、カルテに一文を追加した。
 やはり気がかりでならなかった。
えりかの存在は、むしろ少女を困惑させているのではないだろうか?
 近く精密な検査が必要だが、これらの症状が、改善の兆候とは思えなかった。
いや、思いたくはなかった。

えりかの“存在”は、全てを破綻しかねない。

6th【ERIKA】終

7th
【日記】
1991.6.7 母親

 3月の終わりに、やっと外に出してあげられるようになった。
 先生は、温かい日を選んでくれたけど、当時は、まだ肌寒さを感じる日がほとんどだった。
それでも、あの子はとても喜んでくれた。

 母親として、その役割をどれだけできているのか、気になっていた。
でも、ほとんど外出させていないのなら、そもそもあの子の存在すら知らない人の方が多いのではと、責任逃れをしているような意識が先に立ち、自分が嫌になった。

 普段は、朝と夜に少しだけ、あの子と話す時間が設けられている。
15分という短い時間だったけど、時間が足らないということはほとんどなく、むしろ5分ほどで面会を終える日もあった。
 それは、あの子がお話をすることを嫌がったというわけではなく、その場を取り繕う苦しさに、 自分が耐えることができなかったから。
だから、外につれていきたかった…自分のためにも。
 そんなことも知らず、週に一度の外出を、あの子は本当に喜んでいた。

 6月に入り、雨の日が増えた。
遅い午前の時間帯に、あの子の部屋でお話しをした。
公園に行きたいと言っていたのに、今日も雨だったので残念そう。
 しかし、今日はえりかと一緒に遊ぶ日だから、午後になるのを楽しみにしているという、あどけなく笑う顔を見ていると、なぜか救われる気分にもなった。

 窓の外に目を向けた。
想像通りに、庭先の草花は青く際立っていたけど、雨音は室内まで聞こえてはこなかった。

 (クローゼットに落書きをしたり、カーテンでかくれんぼをしたり…。 最近は、脱衣所でお化粧ごっこも好きみたい…)

 一週間前の、自身が書き残した日記を読み返してみた。
 妹のえりかは、時々癇癪を起しては、あの子と喧嘩をするようだけど、 それ以外は、本当にいい子でいてくれる。
最近のあの子の表情を見ていると、えりかの存在の大きさを感じる。

 またあの子は、えりかも連れて公園に行きたいというだろうけど、もう少し待ってね。

来週には、雨もやむでしょうから。

7th【日記】終

このストーリーはフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。

プロローグ~1st

”ジャーナリスト”

あるジャーナリストとの出会い
※このストーリーはフィクションです。

Read More

2nd~3rd

「既視感」

蘇るのは現実か幻覚か…
※このストーリーはフィクションです。

Read More

4th~7th

「姉妹」

二人の運命とは…
※このストーリーはフィクションです。

Read More

8th~11th

「調査」

真実へのレポート
※このストーリーはフィクションです。

Read More

12th~13th

「追跡」

いのちのゆくえ
※このストーリーはフィクションです。

Read More

14th

「記憶」

そして最終章へ
※このストーリーはフィクションです。

Read More
HOTEL UNIVERSAL PORT HORROR ROOM 2020
STORY 4th 〜 7th